プロレスあんちゃん

森峰あきら・作

 火ようびの8じになると、おにいちゃんは、くるいだします。おとうさんもです。うちのかぞくでまともなのは、おかあさんとわたしだけです。男はばかです。やばんです。らんぼうです。まともではありません。

■第一ラウンド■
「おまえ、どこへいくんだ?」
 ついてません。
 九時までの一時間、家出しようとおもっていたのに、きょうは、おにいちゃんにみつかってしまいました。みかたのおかあさんは、こういうときにかぎっていません。先週から、カラオケ教室にかよいはじめたのです。
「さ、おまえもこい。はじまるぞ」
 うきうきした声でいいました。
 テレビのプロレス・クイズであたった、トラのふくめんをかぶっています。
 けんいちにいちゃんは、ほとんどびょうきにちかいプロレスファンです。じぶんで《タイガー・けんいち》なんて、ばかななまえをつけてよろこんでいます。
 学校でだって休み時間は、いつもプロレスごっこです。友だちとタッグ・チームを組んで試合をしては、先生にしかられてばっかり。おにいちゃんにいわせると、あれは、プロレスごっこではなくて、男と男のいのちをかけた、シンケンショウブなのだそうですが……。
「おまえは、ここにいろ」
 手をつよくひっぱられて居間につれもどされました。
「あんなもの見たくない」
 いってもはなしてくれません。
「あ、あんなものだって……」
 手をつよくひっぱりました。
「プロレスなんてだいきらい!」
 いってやりました。そしたら、おにいちゃんがすごい目でにらんでいました。
「おまえ、プロレスの悪口をいうと、いくら妹でも、このタイガー。けんいちがしょうちしないからな」
 目をぐりぐりうごかしました。
 こんなときは、さからわないほうがいいのです。あいては、びょうきなのですから。
「にげようなんておもうなよ。いいか……」
 なんだかそわそわして、おちつきがありません。プロレスがはじまるからでしょうか。
「……ションベンしてくる」
「……」
 こんなバカみたいなおにいちゃんのせいせきが、六年生でいちばんだなんて、ほんとうにしんじられません。近所のおばさんたちは、おにいちゃんのことを《天才ケンちゃん》とよびます。そして、わたしの気もしらないで、
「みっちゃんは、しあわせだねえ。あんな頭のいいおにいちゃんがいて」
 なんていいます。
 と、とんでもありません! わたしは、日本一ふしあわせな女の子です。
 おにいちゃんがトイレにいっているうちに、にげださないとまた、いじめられます。
 こっそりと、げんかんにでました。そして、ノブに手をかけました。
「きゃあ!」
 そとからすごいいきおいで、ドアがあいたのです。
「おっ。道子。ただいま」
 おとうさんでした。
「……おかえりなさい」
 ついてません。ほんとうについてません。おとうさんは、わたしをだきあげました。
「かあさんは?」
「カラオケ教室、いった」
「そうかそうか」
 ニコニコしています。そして、わたしをだいたまま、居間まであがりました。つれもどされてしまったのです。
「おっ。まにあった、まにあった」
 テレビをつけます。
「いやあ。あつい、あうい」
 台所にはいっていきました。プロレスを見ながら、ビールをのむのです。
「……きんたまのうらまで、あせびっしょりだ」
 いつもこのちょうしです。おとうさんは、けんせつ会社をしています。
 おにいちゃんは、まだトイレからもどりません。こんどこそにげださなければいけません。
 ぬき足さし足で、こっそりとでようとしました。
「おい、道子。プロレス、見ないのか?」
 ビールを手にしたおとうさんに、よびとめられました。
「あんなもの見たくない!」
 わたしは、きいいっとなって、いいました。
「……どうしてだ」
 ふしぎそうにききます。
「わたし、アニメを見たいの!」 
 すきなばんぐみは、かんごふの女の子が主人公のアニメです。わたしは、おおきくなったらかんごふさんになるのです。
「あんなのくだらねえ。おとうさん、やっぱり男は、プロレスですよね」
 トイレからでてきたおにいちゃんが、いつのまにかうしろにたっていました。
「そうだ。プロレスは男のロマンだ」
 おとうさんが、おおきくうなずきます。
「生きるということは、たたかいだ。たたかいに、いのちをかけるのが、男のロマンだ」
 おにいちゃんが、ズボンのチャックをしめながら、いいます。
「……そうですよね。おとうさん」
「ん。そのとおり。何度きいても、感動してしまうことばだ」
 おにいちゃんがいったのは、『アントン名言集』という本のなかのことばです。ばかのひとつおぼえです。もう何回きかされたかわかりません。
「タイトルかくとくの、栄光のあとをおもいおこしてみると、そこにはかならず血と汗がある」
「じつにいいことばだ」
 二人ばかりで、もりあがっています。
「ぼく、おおきくなったら、ぜったいにプロレスラーになるからね」
 おとうさんは、うでをくんで、まんぞくげにウンウンとうなずきます。
 このまえ、学校の《おおきくなったらなにになりたいか》という作文で、おにいちゃんはプロレスラーになりたいとかきました。それが学校しんぶんにのってしまったのです。おまけに、三年生のわたしのクラスでも先生が、みんなのまえでよみました。わたしは、ずっとうつむいていました。おにいちゃんのおかげで、わたしはクラスのわらいものです。
「さ、道子。おまえも見るんだ」
 おとうさんが手をひっぱりました。
「いや、やだ。ぜったい、いや!」
 あばれてもはなしてくれません。
「うるさい。もんくをいうな!」
 おにいちゃんに、頭をばしっとぶたれました。ほんとうは、もっとやさしいおにいちゃんなのに、プロレスがおにいちゃんをくるわせてしまうのです。
「わたし、女の子なのよ」
「おまえには、男のロマンがわからんのか」
「そんなもわかんなくてもいい!」
「道子……」
 おとうさんが、まじめな顔でいいました。
「……な、なによ」
「おまえだって見ておいたほうがいいぞ」
 ばかにしんみりとした口調でした。
「……どうしてなのよ!」
 なにをいいだすのかとおもってききました。
「しょうらい、女子プロレスラーになるためだ」
「…………」
 おとうさんは、悪魔です。
「女子プロにはいって、ごくあくどうめいのダンプ松本をやっつけてほしいんだ」
「…………」
 あまりのことにことばがでてきません。
「おまえならできる」
 おおきくうなずきました。
「プロレスラーになんか死んだってならないもん!」
 泣きたくなりました。
「リングネームもかんがえてあるんだぞ。――ゾンビ・道子。どうだ、強そうな、いいなまえだろう? なにしろ、きょう一日中、会社でかんがえたんだからな」
 きぜつしそうになりました。
「……ま、そのうち、気がかわる」
 ほんとうに目のまえがまっくらになりました。女子プロレスラーになんかなったら、一生、およめさんにいけません。そんなの、いやです。

■第二ラウンド■
 ばかな音楽が、はじまりました。メイン。イベントが、はじまるのです。おにいちゃんは、音楽にあわあせてテレビのまえで、原始人のようにおどっています。ばかです。ばかとしかいいようがありません。
「青コーナー。三百五十五パウンド。アブドーラ・ダ・ブッチャー!」
 リングアナウンサーが、選手のしょうかいをしています。ブッチャーというのは、ドラムかんのようにふとった、まっ黒の外人レスラーです。
 そういえばmこのまえ、海ぼうずにおいかけられる、おそろしい夢をみてしまいました。プロレスなんかみると、ろくなことがありません。
「赤コーナー。二百四十パウンド。アントニオ猪木!」
 日本人のレスラーが、しょうかいされます。
「猪木! がんばれ! ブッチャーなんか、やっつけろ!」
 おにいちゃんのそんけいするレスラーです。もちろん、この人のファンクラブにもはいっています。べんきょうべやは、この人のポスターとかサイン色紙でいっぱいです。
 おにいちゃんは、来年、私立の中学をうけます。だから、まい日、じゅくにかよって、日曜日はいつも会場テストをうけにいっています。
 それが、火曜の八時になると、それまでじぶんのおへやで、しずかにべんきょうしていたおにいちゃんが、まるで、スイッチをいれかえたように、べつじんにへんしんするのです。わたしは、おにいちゃんが、ばかなのか、かしこいのかわからなくなってしまいます。
 べんきょうのことだと、おかあさんまでが、おにいちゃんのみかたをします。このまえ、わたしが、おにいちゃんのことをいいつけたときも、こうでした。
「ま、あの子も、べんきょう、べんきょうでストレスがたまっているんでしょ」
 わたしのくるしみなんか、ちっともわかってくれません。
 おにいちゃんは、プロレスをみたあとは気分がすっとして、べんきょうがはかどるといいます。じょうだんじゃあ、ありません! どうして妹のわたしが、ぎせいにならなきゃいけないのですか。
 ゴングがなって、試合がはじまりました。
「猪木。ブッチャーなんかやっつけろ!」
 おにいちゃんは、もうかんぜんに頭がプッツンです。くるってます。わたしは、なるべくはなれていました。
 暴力は、だいきらいです。あんなやばんな人は、きらいです。どうして、もっとなかよくできないのでしょう。いくら、おしごとだとしても、あんなことをしてお金もうけをするのは、はんたいです。けんかはいkません。
プロレスなんか世の中から、なくなればいいのです。あんなもの!
「おおっと! ブッチャーの頭つき、猪木にさくれつ! 猪木、きいた!」
 猪木がたおれると、おにいちゃんは、テレビにしがみつきます。
「猪木! たて! 男の根性だ!」
 テレビのなかにきこえるわけがないのに、ひっしでさけびます。もうなん年もプロレスをみているのに、それくらいのことわからないのかしら。
 おともだちにきくと、あんなもの八百長だっていっていました。八百長というのは、インチキのことだそうです。はじめからどっちが勝つかきまっているのです。だから、あんなもの、いたくもないのにいたいようにわざとおおげさにふるまっているだけなのです。
 でも、おにいちゃんのまえで《八百長》ということばは、ぜったいにいってはいけません。いちど、けんかして、
「あんなの八百長よ!」
と、いってしまって、ひどい目にあいました。
「よーし、それなら、ほんとにいたくないかどうか、おれの頭つきをうけてみろ」
 そういって、おにいちゃんは、頭つきをしました。目から火花がでました。すごくいたかったです。つぎの朝おきたら、頭におおきなたんこぶができていて、学校を休んでしまったくらいでした。
 はやくどっちかが、負けておわればいいのに。おかあさんは、まだかえってきません。どうして、よりによって火曜日にカラオケ教室なんかに、とおもうと腹がたってきました。
「おおっと! ブッチャー、なにか光るものを……」
 ブッチャーが、手になにかかくしています。フォークです。この人はヒキョウな人で、いつもじぶんがピンチにおちいると、はんそくをします。はんそくは、ヒキョウです。それなのにレフリーの人は、とめません。やっぱり八百長です。
「猪木、あぶない。にげろ!」
 テレビの画面にくいついて、猪木によびかけます。ばかです。
「いのきい!」
 フォークでつかれて猪木のひたいからすごい血がでていました。
「こ、これは、そうぜつな試合になった」
 いちどでじゅうぶんなのにブッチャーは、なんどもなんども、血のでているところをフォークでせめます。ああ。また、夢にでてきそうです。
「おおっと。血にうえた悪魔の化身!」 
 アナウンサーまでばかです。
「じごくからきた黒い呪術師!」
 ブッチャーもものすごいかえり血です。わたしは、テレビから目をはなしました。
「猪木…………いのきいいいいいいい」
 おにいちゃんは、血をみるとますますこうふんします。手のつけようがありません。
 あんなに血がでているのにまだブッチャーは、やめません。ひどすぎます。
「猪木……猪木……」
 おにいちゃんの声が、ちいさくなります。ふとみると、おにいちゃんは、目に涙をためていました。
「……おにいちゃん」
 ちょっとかわいそうになったので、いってあげました。
「だいじょうぶよ。あのね、あれ、ほんとうの血じゃなくて、うその血なんだって。だから、ちっともいたくないんだって」
 おにいちゃんのどんぐりまなこが、わたしをにらんでいました。
「おまえ、あとで、おぼえてろよ」
 かわいそうあとおもっていってあげたのに……。
「おおっと。猪木。かげきなセンチメンタリズム!」
 テレビでは、あんなに負けていたはずの猪木がきゅうに元気になっていました。おにいちゃんも、たちあがります。そして、ざぶとんを三まいとって、だきかかえました。
「根性のジャーマン・スープレックス、きまったか?」
 テレビの猪木にあわあせて、ざぶとんにジャーマンスープレックスをかけました。
「ワン・ツー・スリー!」
 試合は、おもったとおり猪木が、けっきょく勝ちました。ま、八百長ですから、あたりまえです。
「猪木、やった、やった、やった!」
「やったあ!」
 うれしくてわたしもさけんでしまいました。もちろん、やっとおわってくれたからです。それなのに、おにいちゃんは、わたしがよろこんでいるとかんちがいして、あく手をしにきます。
 テレビはもうコマーシャルをしているのに、まだ、おにいちゃんは、夢を見ているような目つきをしています。にげるのは、いまのうちです。そっとたちあがりました。
「ブッチャー、まて!」
 足をつかまれました。わたしは、ブッチャーなんかじゃありません。
「おおっと! ヘッド・ロック!」
 頭をしめつけます。いつのまにか、居間のテーブルはかたづけられています。
「はなして。はなして!」
 テレビがおわると、いつもプロレス技の実験台にされるのです。このまえは、『四の字がため』というのをかけられました。そのまえは、『サーフボードクラッチ』、そのまえは、『シュミット流バックブリーかー』。そのまえは、『卍がため』……。
 おもいだすだけで、くやしくて涙がでてきます。おとうさんもどうかしています。わたしが、いじめられているんだから、とめてくれたっていいのに。
「けんいち!」
 おとうさんのすごい声が、しました。
「は、はい!」
「おまえというやつは……!」
 おとうさんがわたしをたすけてくれたのです。わたしは、おとうさんのうでのなkで、イーダってやってやりました。おこられればいいのです。
「なんどいったらわかるんだ!」
 おとうさんは、やっぱりまともです。そうおもったのですが……。
「いいか? ヘッド・ロックという技は、あいての頭をしめるだけではだだ。よおくみてろ!」
 おとうさんがわたしの頭をかかえこみました。
「いいか。こうやって、体重をかけてだな」
 力をいれてきました。もがいてもだめです。
「いたい。はなしてえ!」
「ちょっとは、がまんしろ。そんなことでは、女子プロレスラーになれないぞ」
「お、おとうさんのばばばか!」
 おもいっきり指にかみついてやりました。
「おおっと。かみつきブラッシー。あ。いててて! お、おい。は、はなせ」
 はなしてあげません。
「み、道子。ほ、ほんきになるな。いて。いててて」
 はなしてやるもんですか。
「きゃあ!」
 おにいちゃんがうしろからわき腹をくすぐったので、わたしは、かみついていた歯を、はなしてしまいました。
「ロープ、ロープ」
 おとうさんが、居間のかべに手をふれます。
「おとうさん。タッチ、タッチ!」
 おにいちゃんが、タッチしました。
「もう、やめて!」
 いってもはなしてくれません。
「おおっと。タイガー・けんいち。ヒキョウなゾンビ・道子の腕をかためた!」
 じぶんで、じぶんのやってることを開設しています。
「正義のジャーマン・スープレックス、きまるか!」
 さっきのあの技をかけるつもりなのです。ばかみたいだけどわたしは、
「おにいちゃん。ロープ、ロープ」
と、かべに足でタッチしていいました。おとうさんのレフリーは、しらん顔をしています。
「こんどこそ」
 おにいちゃんが、わたしをへやのまんなかにひっぱりました。
「ロープにタッチしたのよ!」
 おとうさんに抗議しました。
「そうか? わるい、わるい。見てなかった」
 たばこをふかしながら、そっぽをむいていいました。
「ヒキョウよ!」
 わたしは、さけびました。わたしのときだけこんな手をつかうのはヒキョウです。
「うるさい。レフリーが見てないと、無効なんだ」
 そういって、力をいれてわたしの体をもちあげます。このままうしろへ、ほおりなげるつもりなのです。
「いたーい!」
 足がうきあがりました。
「はなしてえええ!」
 涙がでてきました。
「ひとごろし!」
 思いっきり泣いてやりました。
「なんだ、こいつ……」
 つまらなそうに、やっとはなしてくれました。
「おにいちゃんのばか!」
 テレビの上にあったプロレスの本をなげつけてやりました。
「こんなもの。こんなもの!」
 週刊プロレスも、週刊ファイトも、プロレス大百科もなげつけてやりました。
「こんなもの。こんなもの!」
 サイン色紙も、オモチャのチャンピオンベルトも、なにもかもなげつけてやりました。
「……ん。道子には、やっぱり正統派よりも悪役のそしつがあるようだ」 
 さっきわたしがかみついたところをさすりながらおとうさんがいいました。
「ば、ばか!」
 きいいっとなってじだんだをふんで、そして、くやしくて、家をとびだしてやりました。泣きながらはしりました。はしりながら泣きました。あの家はじごくです。

■場外乱闘■

 児童公園にいきました。
 夜の公園にはだれもいません。ひとりぼっちでブランコにのっていると、きゅうに泣きたくなって、泣きだしてしまいました。
 ふと、うしろにだれかいるけはいがしました。おにいちゃんだったら、ひっかいてやろうとおもって、なみだをふいて、ふりかえりました。
「……」
 しらないおじさんが、わたしをじっとにらんでいます。わたしは、おかしくなってクククってわらいそうになりました。だって、ミッキー・マウスのTシャツなんかきてるんだもの。
 でも……。
「がお!」
 とつぜん、おじさんが、ほえたのです。わたしは、とびあがってしまいまsた。
「い、いたい!」
 にげようとしたら、髪の毛をひっぱられてしまいました。
「おじょうちゃん……」
 だきついてきました。お酒のにおいがムッとしました。よっぱらいです。
「た、たすけて……」
 そのときです、公園のジャングルジムの上からすっとんきょうな声がしたのは。
「タイガー・けんいち、さんじょう。チカンめ、かくごしなさい!」
 トラのふくめんをしたおにいちゃんが、ジャングルジムのいちばん上からとびおりました。
「エルボー・ドロップ!」
「げふっ!」
 おじさんがうめき声をあげました。
「おにいちゃん!」
 もう、うれしくっておにいちゃんにしがみつきました。
「道子……」
 おにいちゃんはゆっくりとマントをぬぎました。
「タイガー・けんいちが助けにきたから、安心しなさい」
 なんだかきどった声でした。でも、すごくかっこよかったです。
「どうだ、ブッチャー。タイガー・けんいちのいりょくをおもいしったか!」
「こ、この……!」
 チカンがせなかをさすりながらたちあがります。ふらふらしていました。
「きなさい。さあ、かかってきなさい!」
 おにいちゃんがあごをつきだしていいました。アントニオ・猪木のまねです。
「がおお!」
 チカンが、おにいちゃんにとっしんしてきます。
「ローリング・ソバット!」
 うしろげりがきまって、チカンがまえのめりにたおれました。わたしは、おもわず手をたたいてしまいました。
「正義のジャーマン・スープレックスをうけてみよ!」
 うしろにまわって、こしに手をまわしました。
「やっちゃえ、おにいちゃん!」
 わたしは、もうむちゅうになってさけんでしまいました。でも、おにいちゃんは、そのままのたいせいで、おじさんおしたじきになってしまいました。
 もがいてもだめです。おにいちゃんは、さかさまにされたかめみたいになってしまいました。
「このチビめが!」
 チビだっていわれるとおにいちゃんは、おこります。あたっているからです。
「くっそ。こ、このチカンめが!」
 おにいちゃんは、やっとのことでたちあがりました。
「きなさい。さ。かかってきなさい!」
 負けているのに、まだ、やるつもりです。
「く、くるしい……」
 おにいちゃんが、ピンチです。チカンがヘッドロックをかけたのです。はずそうとして、もがいたので、ふくめんがビリッとやぶれてしまいました。
「お、おにいちゃん」
 きがついたら、わたしは、おちていたぼうを手にしていました。
「お、おにいちゃんをはなせ!」
 目をつむって、えいってぼうをふりあげました。
「いて!」
 やったと、おもいました。
 でも、頭をおさえていたのは、おにいちゃんのほうでした。まちがってしまったのです。
「……ご、ごめんなさい」
「……こ、このドジ!」
「ごめんさない、ごめんなさい」
「ばかやろう! あのたいせいからジャーマンにはいろうとおもっていたのに!」
 おいかけてきました。
「たすけてえ」
 公園のなかをにげまわりました。
「がおおお!」
 チカンが、そこにまちかまえていました。
「きゃあああ!」
「ばかやろう!」
「がおおおお!」
 ふたりでわたしをおいかけてきます。
「きゃあああ!」
 もうメチャクチャです。
「あっ、待て!」
 ドサクサにまぎれてチカンがにげていきます。
「けんいち!」
 公園の出口のほうで声がしました。
「お、おとうさん!」
「さっきのエルボーはよかったぞ。……しかし、スープレックスのほうは、まだまだしゅぎょうがたらん!」
 チカンは、おとながきたのであわてています。
「がおおおおお!」
 おたけびをあげました。
「ウエスタン・ラリアート!」
 おとうさんの右うでがさくれつしたのです。チカンは、はじきとばされてしまいました。
「ひ、ひえええ!」
 もうたじたじでした。
「けんいち。よくみていろ!」
 チカンをおこします。
「は、はい!」
「これがほんもののジャーマンだ!」
 チカンの体がとびました。
「ワン・ツー・スリー!」
 おにいちゃんが、すかさずカウントをとりました。ぜんぜんうごけません。おにいちゃんが、おとうさんの手をあげます。
「イチバン! イチバン!」
 お父さんは、ピョンピョンとびあがりました。
        ※
 お家にかえるとちゅうで、おにいちゃんは、、くやしそうにいいました。
「くそお。二本目こそは、ジャーマンをきめてやろうとおもっていたのに!」
 けっきょくチカンににげられてしまったのです。
「くっそお!」
 血がながれている顔でにらまれました。さっきわたしが、ぶったところです。ごめんなさいっていおうとしてもことばになりませんでした。
「道子……」
 おにいちゃんが、いいました。いつになくしんけんな顔です。
「すまなかった。おにいちゃんのことをゆるしてくれ。おれは、おまえを助けることができなかった。おれがばかだったんだ」
 けんいちにいちゃんにあやまられたのなんて、はじめてでした。
「ん。おにいちゃん、ばかじゃない」
「いいや。おれはばかだ、ばかなんだ」
 じしんをもっていいました。
「そんなことない。おにいちゃん、すごくかっこよかった」
「そうか? がははは」
 おにいちゃんは、血をながしながら、うれしそうにわらいました。もう、すぐちょうしにのるんだから。
        ※
「ばか!」
 おうちにかえると、おかあさんのげんこつが、おにいちゃんをまちうけていました。おかあさんは、チカンじけんのことをきくと、すごくおこりました。
「……だって、おれとおとうさんがこいつをたすけてやったんだよ」
 口をとんがらせていいました。でも、おかあさんは、目を三角にしたままです。
「さ、べんきょうべんきょう」
 おにいちゃんは、さっとじぶんのへやににげこんでしまいました。
「おれもべんきょうでもするかな……」
 おとうさんもうまくにげようとしましたが、おかあさんに耳をひっぱられました。
「もし、道子になにかあったら、あんた、ただじゃおかないわよ」
 おかあさんが、わたしをだきしめました。
「……」
 おかあさんのまえでは、おとうさんもシュンとして、なにもいいかえせません。家では、おかあさんがチャンピオンなのですから。
「ゴミ、だしときなさい」
 おとうさんは、すごすごとゴミをだしにいきました。
「すこしはんせいしてくるといいわ」
 おかあさんがげんかんのドアをバシンとしめて、カギをかけました。
 ……
 わたしは、カギをあけておいてあげました。

 けんいちにいちゃんは、二、三日は、はんせいしていたみたいです。
 でも、おにいちゃんがいてよかったとおもったのは、月曜日まででした。
 火曜日、やっとおにいちゃんのふくめんをぬいおわったので、かえしてあげようとおもっていたときです。
「道子、道子!」
 おにいちゃんが、わたしのへやにすごいいきおいでかけこんできて、手をあわせてこういいました。
「道子。男のたのみだ。おまえ、もういちd、家出して、あの公園でチカンにおそわれてくれ。こんどこそ、このタイガー・けんいちが、正義のジャーマンでたすけてやる」
 へやのそとにおとうさんがたっていました。
そして、こういいました。
「けんいち、よくぞ、いった。それでこそ、男のロマンだ」

 ……やっぱり男って、どうしようもないばかです。やばんです。まともではありません。
 火曜の八時になるとまたおにいちゃんは、くるいだします。

              《試合終了》


作品について

■原稿枚数:17枚
■あらすじ:わたしのお父さんは大どろぼう。なのにわたしはせいせきゆうしゅう、行いものよい子。それでお父さんはかんかん。悪い事をするまで帰ってくるあと、追いだされてしまったわたし。どうしよう……。
■初出: 1997年11月20日  3年の読み物特集 下 株式会社 学習研究社学研

作者について

森峰あきら

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