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次の文章を読み、英文で(1)要約し(2)自由に意見を述べなさい。(60点)
ヨーロッパの人の言葉は、たいへん論理的だという話になっているわけだけれども、実は私ついこのあいだヨーロッパへ行きまして、何十年もヨーロッパにいる私の友人に会いましていろいろしゃべったんです。その友人はたいへんフランス語のじょうずな、フランス人そっくりにフランス語を話す人なんです。彼はいっていましたけれども、何もフランス人だって会話のときにしょっちゅう主語、述語、主語、述語、主語、述語とやっているわけじゃないんですよと。簡単にみんな省略して話すんだ・ただ、ひとたび文章を書くとなったらきちっと書く。どうも日本人はそのところのけじめがつかない。文章を書くときになっても会話のようなつもりで書いているという話になったんですね。
これは非常に大切なことだと思うんです。日本人としては相手が知らなそうなことだけいえばいいというのが一つの知恵なのだけれども、その知恵が少し働き過ぎると測定を誤る。そうすると「行こうといったんだけれども、いやだといったものだから、おこっちゃって帰ってきた」みたいな文章を書くわけです。これじゃ、もう大勢の人にはわからない。
そういうふうに考えると、日本人は未知のことを投げればいいという会話の精神をもって文章まで会話的に書くということがわかる。実はスイスでレビンというドイツ人の日本語学者と話したんですけれども、その人が、「日本の小説は途中から読むと非常にわかりにくい。だければども頭から読めばわかる」ということをいっていました。つまり日本語には場面とか文脈にたよった表現が非常に多い。文脈や場面にたよっているということは未知のことだけ、相手が知らなそうなことだけいってつないでいくということです。ところがヨーロッパの人たちの文章は似g本後に比べると、一つ一つの表現が、書いたものだけで一つ一つの世界をはっきりわかるように書く。言語で一つ一つ世界をつくっていく。日本人は、言語なんていうものはたいしたものじゃないんで、人と人とのつき合いや人と人との交通そのものの方が大切だと考えている。そこでは相手が知らなそうなことだけピョイピョイ投げ合えば済んじまうと思う。言語だけで完結した世界を作って、それを自己と相手との間に置こうとはしない。会話のように、文脈や場面にたよった文章を書くということですね。 (大野晋『日本語について』)
――東京外国語大学 前期日程 (2月25日実施)――2005年
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